バルトークってどんな人?
ご訪問いただき、ありがとうございます。
石川県金沢市(泉野町)のまーぶるピアノ教室
ピアノ講師の中村真里です。
皆様、バルトークをご存知ですか?
私は20年ほど前にコンクールの課題曲で
初めてバルトークの曲と出会い、
彼の独特な音楽に魅了され興味を持ちました。
今日はハンガリーの偉大な作曲家
バルトークについて書いてみたいと思います。
バルトークってどんな人?
バルトークはハンガリー王国の
バーンシャーク地方、
ナジセントミクローシュに生まれ、
ニューヨークで没した作曲家、
ピアニスト、民族音楽研究家です。
学問分野としての民俗音楽学の祖の一人として、
東ヨーロッパの民俗音楽を収集・分析しました。
父は町に音楽協会を設立するほどの
熱心な音楽愛好家でもあり、
ピアノやチェロをたしなんだそうです。
母もピアノを弾き、バルトークは3歳くらいから
母のピアノ演奏に合わせて太鼓を叩き、
4歳では自己流で40曲のピアノ曲を作曲しました。
7歳のときに父親が病死。
以後、母親が家計を支えながら
子供に質の高い教育環境を整えるために
一家はハンガリー中を転々とする不安定な
生活を余儀なくされました。
幸い、ポジョニに5年間定住し、
ギムナジウムでエルケル・ラスローらに
作曲やピアノを学び、
礼拝堂でオルガンを演奏したり、
オペラやコンサートに通うことができました。
このときバルトークは、ギムナジウムで
4つ先輩のドホナーニと出会います。
※ギムナジウムとは…
ヨーロッパの中等教育機関。
日本で言う中一貫教育に近い。
学内でもピアニストやオルガニストとして活動し、
ブラームスの影響を受けた作曲活動にも
取り組んでいたため、
17歳のときにウィーン音楽院に
入学を許可されたそうです。
しかし国際色豊かなウィーンよりも
ハンガリーの作曲家としての
自分を意識すべきだというドホナーニの薦めに従い、
翌年ブダペスト王立音楽院
(のちのリスト音楽院)に入学します。
24歳のときにパリの
ルビンシュタイン音楽コンクールに出場、
ピアノ部門では2位、
作曲部門で入賞せず落胆します。
民謡について科学的アプローチを始めていた
コダーイと出会い多大な影響を受けました。
その後コダーイやその他の研究者達と共に
ハンガリー各地の農民音楽の採集を始めます。
26歳でブダペスト音楽院ピアノ科教授となり、
ピアニストとして各地を旅するのではなく、
ハンガリーに留まったことで、
更なる民謡の採集が進み、
民謡の編曲なども行ったそうです。
58歳のときに母が亡くなり、
政治的に硬化していくハンガリーを去り、
民俗音楽の研究に打ち込める環境を求めて
59歳のときにアメリカに移住します。
友人らの協力でコロンビア大学の
客員研究員として南スラブの民俗音楽の
研究に取り組みました。
作風については、
本人が「若い頃の私にとって美の理想は
ベートーヴェンだった。」
と回想しているように
ドイツ・オーストリア音楽の
強い影響を受けています✨
楽曲は民俗音楽の旋律やリズムだけではなく
構造面も分析した上で、
ソナタ形式など西洋の音楽技法の発展系を
同時に取り入れて成立していることや、
過去の音楽に目を向けて新しい音楽を
生み出そうとした点など、
音楽史的には新古典主義の流れの一人
とされています。
☆☆☆
今回バルトークについて調べてみると
人生の選択を迫られる場面で、
やりたいことを後押ししてくれる
友人の勧めや協力などにより
道が決められたことが分かりました。
「出会い」ってやっぱり凄い✨ですね!
次回バルトークの作品について
調べてみたいと思います (*^▽^*)
本日もお読みいただき、
ありがとうございました (^o^)丿